私はふりかけ団地を作りたくてしょうがない。
私は18歳で高校を卒業して上京してから、29で足を怪我するまでの10年あまりの間、東京と福岡を行ったり来たりしていました。宗教にはまって連れ戻されたり、首が謎の斜頸になって戻らなったりするたびに、一旦出てきた東京から、福岡の実家に戻ってくる羽目になったからです。
つまり10年の間で、福岡にいるときというのは、宗教にはまっていたり、病気だったり、引きこもったりしていたわけで、そんな時に唯一、楽しみで行きたかった場所が「夕べ」でした。
「夕べ」というのは福岡で唯一ファンになった劇団「仮面工房」の主催、カットさんに招待された表現の場で、そこでは夜な夜な即興で音楽が演奏され、思い思いの歌や踊りやアートが繰り広げられていました。
最初は九州大学の地下室に赤い緋毛氈を敷いて行われており、後に場所がホールに変わりましたが、そこに集まる人は変わりませんでした。
そこには、自由に生きることが難しい日常から逃げ出して避難してくる人がたくさんいました。そして生き生きと、二度と再現できない表現の時間を楽しんでいました。
そこには、弱さもありましたが、突出した個性や才能があふれていました。
そんな「夕べ」のある福岡を、車椅子になったのをきっかけに離れ、私は東京に自分の居を定めました。車椅子になったことで、逆に広い都営団地に住むことができ、難儀だった就職もできました。
「ゆうべ」みたいな場所を探した時期もあり、自分で作れないか考え、福岡でカットさんに相談したこともありましたが、いつのまにかそんなことも忘れていきました。
それから長い年月が経った今、なぜか自分の居場所がどこにもないような気持ちに襲われています。会社は辞めてしまった。家から出ずに引きこもり、今まで東京で何のつながりを作ってきたのかわからなくなりました。
引きこもった団地の中で、自分はいったい何がやりたかったんだろうかと考えました。 本当にやりたかったことは何だろうかと。
そして思い出したのが「ゆうべ」をつくること。
何故かわからないけれどどうしても行きたい場所。
私の父親はあまり外に出ることが好きではありませんでした。でも、老後唯一喜んで出かける場所があって、それは歌声喫茶でした。そこに行くと父は母が止めようと、全くその声が耳に入らずに人前に出てきてマイクの前で歌い始める。
がんで亡くなるちょっと前、ふらふらになりながらバスに乗って出かけようとして結局あきらめて帰ってきたのが、父が歌声喫茶に向かった最後でした。
でもそんな場所を見つけただけで、父は幸せだった。
私は父と同じように、ふらふらになってもバスで通いたいと思う場所を作りたい。それはそこに集まる人のためではなく、まさに自分のために。
福岡のカットさんのようになれないことはわかっている。でも、私流のあの場所を作ることはできないだろうか。
そこで私はオリジナルの「夕べ」を作ることにしました。
それが「ふりかけ団地です」